20日から郷土博で企画展
今年は明治維新から150年‐。近代日本の国づくりなどの歴史に関心が集まっている。浦安市の郷土博物館では3月20日から「測量」をテーマにした企画展を開催。そのひとつが日露戦争後の樺太で、両国国境線(北緯50度線)画定のため浦安から宇田川徳太郎・陸軍騎兵曹長(のちの第7代町長)が参加。露皇帝から勲章授与など、これまで知られていなかった秘話が明らかになった。同時に日本全国を測量した千葉県の偉人・伊能忠敬の没後200年にあたり、香取市から貸し出された「伊能大図原寸大複製パネル」も展示する。4月22日まで。
徳太郎が樺太での日露両国の国境線画定事業に参加していたことが判明したのは、一昨年12月、同氏の子孫から寄贈された明治〜昭和初期の写真や地図類約60点などの資料分析でわかった。
担当した主任学芸員の林奈都子さんは「徳太郎さんは筆まめで寄贈された写真や絵はがき、メモ類には年月日と氏名が書かれ、助かりました」と郷土の偉人を称える。
同博物館の調査報告第15集「測量をめぐる浦安の偉人 宇田川徳太郎」〜ロシアとの国境線をつくった男〜などから企画展の内容を紹介する。
■先祖は加賀前田藩士
徳太郎(明治13=1880年〜昭和38=1963年)は現在の堀江3丁目生まれ。先祖は加賀前田藩士。参勤交代で江戸に来て、嘉永(1848 〜1854)年間に猫実に移住。宇田川吉六と称した。吉六の次男・寅吉(安政元年=1854生まれ)の長男として誕生したのが徳太郎。
■日露戦争出征
徳太郎は行徳高等小、正則中、東京簿記学会に学び、明治33年(1900)、陸軍第一連隊に入隊。同36年には世田谷第一師団騎兵第一連隊本部付書記騎兵伍長に昇進。同37年(1904)2月、日本がロシアに宣戦布告。日露戦争が始まり、徳太郎の部隊も清国満州へ出征。
露皇帝から勲章授与などの秘話明らかに
■日露両国樺太境界画定事業
ロシアに勝利した日本は同38年(1905)9月の日露講和条約(ポーツマス条約)で、ロシア領樺太の南半分を譲渡された。両国の境界を定めるため、東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡沿岸までの境界線(北緯50度線)を天文測量し、目印の境界標を設置する必要から「樺太境界画定委員」が日露共同で組織された。
徳太郎は同39年(1906)5月、同委員のメンバーに属員として任命され現地入りした。徳太郎が後年記したメモからこの事業の概要をみると―。
同40年まで実施した事業の委員は日露双方17人ずつで組織。日本の委員長は陸軍砲兵大佐・大島健一(のちに陸軍大臣)。
写真帳の最初のページには樺太に出発直前、青森で撮影された43人の日本スタッフの集合写真。全員の名前と肩書がわかるようにメモを残した。それによると、徳太郎のような兵員のほか、測量士12人、通訳2人、軍医、看護長、写真師各1人、雇員13人で構成。
明治39年6月8日、大礼丸で青森港から出発。22日に樺太入りし、北緯50度線を目指し南下。7月8日、半島中央部を南北に流れるボロナイ(幌内)川近くの村に到着。ロシア委員とともに密林を切り開いて通路を作ったり、連絡用の電話を架設したりと準備を進めた。
東海岸から西海岸まで約131㎞の間、4か所で天文観測を実施して北緯50度の位置を定め、その場所に天測境界標石4基を設置。標石の南面(日本領側)には菊の紋章と「大日本帝国」の文字が刻まれていた。
■高揚感あふれる
メモによると、徳太郎は「此ノ樺太境界画定事業ハ、実に愉快ナリキ、彼ノ日露ノ大戦争ニ我日本ガ勝ッテ領土ヲ貰フコトニ為ッテ(略)吾々ノ鼻息ハ(略)すざましいモノガ在ッタ(略)」。高揚感にあふれている。同41年4月、徳太郎らを含む樺太境界画定委員は功績を称えられ、ロシア皇帝から勲章を贈られた。
郷土博物館特別展示 伊能大図複製パネルも
一方、「伊能大図原寸大複製パネル」(関東部分、南北12メートル×東西5.5メートル)や、千葉県管内実測図「銅板墨刷 7万2千分の1」(明治18年)、樺太全図(同37年)、樺太境界画定作業写真帳(同39年)、ロシア皇帝から贈られた「神聖スタニスラス綬付銀製記章」の証書(同41年)も3月20日~4月22日まで、郷土博物館2階に展示される。
伊能忠敬は浦安(堀江村・猫実村・当代島村)にも享和元(1801)年の第二次測量で訪れている。
また、3月21日13時半~14時半で香取市長親書手交式・展示解説(伊能忠敬記念館学芸員・山口眞輝氏)も行われる。来場者にはマンガ「伊能忠敬物語」を配布(なくなりしだい終了)。
このほか、宇田川徳太郎関係では4月8日と22日(いずれも14時~14時半)、担当学芸員の展示解説がある。