ベカ舟、打瀬舟、投網舟、鵜縄舟などの復元に尽力
「設計図はないが、(イメージは)頭の中に入っている」―。宇田川信治さんは長年の舟大工の経験を活かし、浦安市郷土博物館などでベカ舟、打瀬舟、投網舟、鵜縄舟の復元に尽力した「浦安舟大工技術保存会会長」の功績が認められ、26年度市教育功労者として昨年末、表彰された。
生粋の浦安っ子。境川沿いの代々舟大工の家系「勘兵衛」に生まれた。覚えているのは「関東大震災で祖父の息子が亡くなり、腕を見込まれ婿に入った父も戦時中に死亡。尋常小6年で浦安造船所に入ったあたりから…」。かつて “造船所” だった猫実の自宅で、戦前から戦後の “浦安の造船史” を話してくれた。
浦安造船所は、戦争末期とあって100トンクラスの木造輸送船を3~4隻造っただけ。宇田川さんの本格的舟大工歴のスタートは終戦を迎えた16歳から。師匠の「渡辺亀吉親方」について “小舟(ベカ舟)” 造りから始めた。「舟造りは土地に合った舟ができればベスト」と海水と真水が交じり合う浦安の海に強い印旛杉材の脂部分を活かした “浦安バージョン” の舟造りを心がけたという。
「舟造りをどうして覚えたかって? 朝早くに親方のところへ出向いて、こっそり帳面からメモ、引き算、足し算しながら頭に叩き込んだ。そして、親方の造り方を目に焼き付けて “盗んだ” 」。
昭和30年、26歳で独立。当時浦安には6つの造船所があり、職人が20人いた。戦後復興から高度成長への過渡期で、1800隻の舟が境川などを埋めていたそうで、漁師町・浦安の最盛期。
「宵越しの金を持たない」漁師のために、ベカ舟1隻を1週間で手造りし、購入資金を日掛け貯金(いまのクレジット)でまかなうアイデアを編み出している。
こんなエピソードも。山本周五郎の「青べか物語」を川島雄三監督が映画化。質屋の旧家にロケの際、「スタッフが古い舟を持ち込んできた。舟の底に穴を開けるなど工夫してなおした」と明かし、クリエーターとして共感したことを振り返った。
浦安の舟大工は、製紙会社の汚水事件を機に、海苔や貝類などの漁業者が減少したことや沖合の埋め立ての進捗で漁場が狭まり、昭和46年、漁業権を放棄し、漁師は陸にあがり、舟大工も転職を余儀なくされ、宇田川さんも弟の会社を経て自動車教習所に転職。
”陸の孤島” だった浦安は急速に発展をとげ、東京のベッドタウンであり、東京ディズニーランドに代表されるリゾートタウンに生まれ変わった。
舟大工だったことを忘れかけた平成4年、市職員から「ケーブルテレビ番組でベカ舟を再現してほしい」と頼まれた。「一度は断ったものの、『60代は(培った技術を)世の中にお返ししなさい』。あなたがやれば後を付いてくる人がいる」と教習所の先輩に説得されたことや、市が印旛杉材を用意してくれていたことから引き受けた。
20年ぶりに復元した「帰ってきたベカ舟」は、特別賞を受賞し、全国で話題になった。これを機に、舟大工や漁師仲間と手を携え、帆を張る打瀬舟、投網舟、追い込み網漁の鵜縄舟などの復元に尽力。中でも “幻の舟” といわれた鵜縄舟は「おぽろげな記憶だったので、5人の漁師から聞き取りして、長さ、幅、深さを図面に起こして復元した」が、見学に来た人から「昔の通り(の舟)」と評価され、思わず「よかった」と安堵したという。
浦安の “知る人ぞ知る”有名人の宇田川さん。「舟大工」の仕事を通じて作家や映画監督などと交流できたのがありがたいと話した。
うだがわ のぶじ
昭和4年11月生まれ。20年の終戦から本格的に舟大工となり、30年に独立。46年の漁業権放棄で弟の会社を経て自動車教習所に転戦。平成7年結成した「浦安舟大工技術保存会」(会員20人)の会長を16年まで務める。現会長は弟の彰さん。市教委の依頼でベカ舟、打瀬舟、投網舟、鵜縄舟などを復元建造、後継者育成にも力を注いできた。