今後も野球を通して子供たちの成長を見守りたい
浦安中学校軟式野球部、その後、浦安高校硬式野球部の監督として、生徒指導に力を入れ、両校の立て直しに尽力してきた大塚知久監督が、来年3月に惜しまれつつ定年を迎える。
保健体育の教員として浦安中学校に赴任したのは昭和63年。学校全体が荒れており、校内暴力も珍しくない中でのスタートだった。「何とか学校を良くしたいと思い、まずは生徒指導に力を入れました」と監督。
野球部は練習に参加する部員も少なく、「野球のグラブは血の通った自分の手と同じ。大事にしなくてはならないよ」と伝えても、真剣に聞く部員はほとんどいなかった。試合でも結果がついてこず苦しい日々が続いたという。しかし、根気よく部員に向き合っているうちに、少しずつではあるが、真摯に練習に取り組む部員たちの姿が見られるようになった。
平成に入ってからは、秋・春の市川浦安大会で決勝戦への進出や新人戦の優勝など、結果が出るようになった。生徒指導の成果も次第に出始め、学校全体が徐々に落ち着きを取り戻してきたという。
15年間の中学校勤務後、平成15年に浦安高校へ。当時は、教室内に生徒はほとんどいなく、授業が成り立たない状態だった。教室内は食べ物の容器などゴミも散乱していた。この状態を「何とかしなくては」と、監督自ら教室の清掃から始めた。一緒にやる生徒は少なく、根比べのような日々が続いたそうだ。
野球部の部員も5~6人にすぎなかった。練習に出てくる部員はさらに少なく、冬は部員1人を相手に、マンツーマンの練習が続くことさえあった。「もう少しの辛抱だぞ。いつまでもこの状態が続くわけじゃない。頑張ろう!」と声をかけていたが、「その言葉は、自分自身に言い聞かせるような気持ちが強かった」と当時を振り返る。
県大会では、部員数が足りないため、他の部活動から応援を頼み、出場した。赴任後、初めての県大会は13-0で大敗したが、選手たちは悔しがることもなかった。
その後、県から、生徒の個性を伸ばす『自己啓発重点校』に指定されたこともあり、「学校立て直しのため、まずは新入生の指導に力を入れよう」との学校の方針が決まった。「浦安高校に少しでも目的を持って入学してほしいと、近隣の野球をやっている中学生に、『浦安高校で一緒に野球をやろう!』と声をかけて、入学してもらうよう働きかけたこともある」とも。
そんな取り組みを続けるうちに、授業に出席する生徒も増え、行事なども落ち着いてできるようになってきた。
野球部でも真面目に練習する部員が増え、県大会でベスト4やベスト8まで勝ち進んだ年もあった。「グラウンド整備日本一、ノーエラーできるカバーリング日本一など、部員全員が小さな日本一を目指そうというスローガンを掲げ、地道に練習を続けてきた」結果だという。
大塚監督は教員と監督生活を振り返り、「浦安中学・高校とも自分の母校ということもあり、学校にしろ、野球部にしろ、何とか立て直したいという思いが強かった。野球で培った力が、部員の将来に必ず役立つと信じており、今までやってきました」と力説する。
最近では、高校OBが後輩を指導してくれたり、近隣の方が差し入れをしてくれたり、保護者がグラウンド整備を手伝ってくれたり、と周りの人たちの温かいサポートに随分助けられていることも多いという。
「今後も、何らかの形で野球に関わっていきたいし、野球を通して子供たちの成長を見守り続けたい」と、大塚監督は熱く語った。
◇大塚監督のプロフィール:
1960年、浦安市生まれ。浦安中・浦安高校から日本体育大学に進学。卒業後、保健体育の教員となる。浦安中に15年間勤務後、浦安高校へ。野球監督として両校の立て直しに力を尽くす。