うらやすの人(5) : 浦安細川流投網保存会会長 次世代に投網の技術を伝承 内田守吉さん

うらやすの人(5): 浦安細川流投網保存会会長

次世代に投網の技術を伝承

内田守吉さん

 「若い人に入ってきてほしいんだ。投網の技術を受け継いでくれる若い人にね」
 それまでの朗らかな口調が、少しトーンダウンした。日に焼けた顔に、苦虫が走る。浦安に生まれ、浦安の投網船で育った細川流投網保存会の2代目会長は、陸(おか)に上がってからも技術の伝承に熱意を注ぐ。

投浦安細川流投網保存会会長 内田守吉さん

うちだ・もりよし
昭和11年8月 浦安生まれ、77歳
昭和26年3月 浦安中学卒業、家業の投網船で働く
昭和48年 投網船を廃業。不動産業界に就職
昭和51年 独立して不動産業を営む
平成20年 浦安細川流投網保存会2代目会長就任

 内田さんが投網船に乗ったのは小学6年生のとき。実家が、客に投網を見せて捕れた魚をてんぷらや刺身で提供する遊船(投網船)を営んでおり、見よう見まねで櫓を漕ぎ、網を打った。浦安中学校卒業と同時に家業に本腰を入れ、船を操作する舵子(かじこ)を5年、網打ち10年の経験を重ねて1人前に。

 「川底の浅いところから深いところに移る落ち際(段差)に魚がいるんだ。それを見極め、網を打ちやすいように操船するのが舵子の腕の見せ所」
 「投網の細川流は江戸時代末期、細川の殿様がいた熊本の漁師が伝えたことからこの名がついた。大きな網を豪快に打つ”すくい取り”で、川下に向けて投げるのが基礎だね」

◆旦那遊びも次第に減少

 資料によると、大正8年に江東区と浦安の間を通船が往復するようになってから投網船の客が増えた。4~6人乗りの船に芸者らを伴って乗り込み、舳先から網を打たせ、捕れた魚をその場で刺身やてんぷらにして食べる”贅沢な”遊びだった。内田さんが現役の昭和30年代は大衆化しており、6人乗りで1人1万5千円から2万円の料金だったという=写真(郷土博物館提供)。
 当時の投網組合員は33軒。セイゴ(スズキの子)やボラ、ハゼ、クロダイなどが面白いように捕れた。しかし、東京湾内を代表する漁師町・浦安は高度経済成長期の余波を受け、工場排水などで海の汚染が進み、漁業不振に。昭和33年の本州製紙江戸川工場事件がさらに追い討ちをかけた。
 「海が汚れ、死活問題だった。連日、組合大会が開かれ、抗議行動がエスカレート。乱闘事件まで発展した。20代半ばの元気の良い頃だったから、石ころが飛んでくる中で製紙工場側とやりあい、4日間ほど留置場に放り込まれた」と内田さん。水質汚濁防止法制定のきっかけになったといわれる事件だった。

◆投網経験者は6人に

 騒動は治まっても、海の汚れはなくならず客足が戻ってこない。やがて、かつてアシ原だった岸辺も、埋め立て用のコンクリートで固められた。

投網船

投網船(郷土博物館提供)

 「投網を終えて、夕日が落ちていく中を帰る、なんともいえない風景がなくなった」と、保存会員のひとり。

 投網船を営む人もしだいに減り、やがてゼロに。内田さんも昭和48年、陸(おか)に上がり、不動産業に転身した。
 浦安から投網漁が消えた。しかし、体に浸み込んだ技術を忘れられない人たちがぽつぽつと集まりだし、平成7年市のバックアップもあって保存会が結成された。

 現在の会員20人。うち投網経験者は6人ほどで、残りは会のことを知って千葉や横浜から参加した人たち。大半が60歳代より上という。
 練習日は月2回。見物人が珍しそうに見にくる。時々小学生の姿も。会員らは練習がない日でも郷土博物館内の『船宿』に集まり、博物館見学者にかつての浦安の漁業の説明など応対にあたる。

 「伝統を守りたい。でも、技術はやさしくはない。我々は生活のために技術を覚えたが、今の人たちは趣味の世界ですから。それでも保存会を長く続けたいし、若い人に技術を残したい」。内田さんの思いは揺れる。


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